今年も3月11日がやってきました。
私自身の「3.11」に関する想いは、
東日本大震災の1年後に書いたこの記事から、
未だに全く変わっていません。
思い出したくないし、振り返りたくもない「今年はすっとぼけて、何かバカ話を書こうかな?」
という事も考えました。
でもそれもどうかと思いましたので、こんな話でも。
ちょうど昨年の今頃だったと思います。
テレビで放映されていた震災関連のドキュメンタリー番組で、
こんなシーンを見ました。
津波で小学生の娘が行方不明になってしまった、という、
一人の男性が紹介されていました。
その男性は仕事が休みになる週末になると海岸沿いを歩き回り、
娘の消息について手がかりになりそうなものを探し続けています。
ある日、男性が住む地域で、
その地域の「復興」に関して話し合う集会があり、その男性も出席しました。
「復興」に関する話し合いですから、
あの施設の修復に行政から補助金が出そうだ、とか、
その補助金を受け取る為にはいつまでに申請書類を作らなければならない、とか、
その申請書類作成の為に必要なものは・・・、とか、
そんな話し合いになります。
でも未だに消息がわからない娘の事が気になる男性にとっては、
「自分だけが取り残されてしまった」ような気分になるだけで、
その集会に自分がいること自体が精神的に耐えられません。
結局、途中でその集会を抜け出して、家に帰ってしまいました。
この男性にとって「復興」というものに何の価値があるのでしょうか?
この男性にとって「絆」って何なのでしょうか?
この男性の行動に周囲の人が
「それって、テメーの都合じゃね~か」などと言えるでしょうか?
今年もメディアでは
「絆」とか「復興」などといったキーワードが飛び交う事でしょう。
「風化させてはならない」などというメッセージも発せられる事でしょう。
そんな最大公約数的な話が無意味だとは言いません。
大切な事だと思います。
でもそんな「最大公約数」から外れた事情を抱えている人や
別の感情を抱く人の事を考えているでしょうか?
「風化させてはいけない」と言っても、
あの日に味わった恐怖や悲しみを忘れたい、
という人の存在を意識しているでしょうか?
「絆」「復興」「風化させてはいけない」という話だけで、
一つのベクトルを作り出す事が果たして正しい事なのでしょうか?
私は年々、そんな疑問が深まっています。
そもそも「絆」「復興」「風化させてはいけない」という3つの要素は、
時と場合によってはお互いに足を引っ張り合うケースもあることに
気がついている人も多いのでは?
被災地には「3.11」以前から抱えていた問題が色々あった筈です。
私も東北出身ですから、そのいくつかを知っています。
中には「3.11」以降は全く語られなくなってしまった話もあります。
「復興」と言っても、元に戻す事が必ずしも正しいとは限らないものもある筈です。
その議論をせずに「復興」なんて言えるのでしょうか?
ここは競馬関連サイトですので、「競馬」に関して言えば、
「3.11」以前とそれ以降における「岩手競馬」などというのも、
その一つでしょう。
以上が4年経った今、「時々考えること」ということで。