[日記]敢えて「田原成貴」という名前と共にマヤノトップガンを語らせてください

既に報道等でご存知の方も多いと思いますが、マヤノトップガンが3日(日・祝)に繋養されていた優駿スタリオンステーション(北海道新冠郡新冠町)で老衰の為、死亡しました。27歳でした。

プレスリリース(JRA公式サイトより・PDF)

1995年の菊花賞と有馬記念、1996年の宝塚記念、1997年の天皇賞(春)など、G1・4勝を含む重賞5勝を挙げています。鋭い決め手で勝利したレースがあったかと思えば、ハナに立って後続を完封して逃げ切り勝ちを決めてみたりと、まだ競馬歴が浅かった私に競馬の面白さを教えてくれた1頭でした。

しかし、マヤノトップガンの自在な脚質を語る上で欠くことが出来ない人物がいたことを忘れてはなりません。それは、田原成貴という元騎手でした。マヤノトップガンの死を伝え、当時を語るメディアの多くは、恐らくこの「田原成貴」という名前に触れることは出来ないでしょう。後にマヤノトップガンをはじめ、手綱を取った多くの名馬たちに泥を塗り、競馬界にも泥を塗るような大事件を起こして追放された人物ですから、語ることが出来ないのはやむを得ないと思います。しかし、私はマヤノトップガンという馬を語る際に、どうしても田原成貴元騎手についても触れなければならないと思っています。本当はこの話はタブーなのかもしれません。気分を害される方がいるとしたら、お許しください。

マヤノトップガンの武器であった脚質の自在性を引き出したのは、田原成貴元騎手であったことを疑う人はいないと思います。彼以外の騎手に、有馬記念での逃げ切り勝ちなどという芸当が出来たでしょうか?恐らく、岡部幸雄元騎手や武豊騎手でも無理だったのではないでしょうか。いい意味でも、悪い意味でも規格外、常識外れだった田原成貴元騎手だったからこその勝利だったと思っています。

田原成貴元騎手は、競馬好きの間でも好き嫌いがはっきりと分かれる騎手でした。私が競馬を始めた直後に起きたサンエイサンキュー事件(当時の私は馬券を買ってはいけない身分でしたが)でもその存在が目立っていましたし、私が競馬を始める以前にはサルノキング事件などというモノもあった訳ですし。競馬好きとしては私の先輩格にあたる人が常にこんなことを言っていたのを思い出します。

「オレは田原成貴が絡む馬券は絶対に買わない。どんな馬に乗っていても買わない。」

サンエイサンキュー事件以降、ちょうどマヤノトップガンが走っていた頃には、音楽活動や漫画の原作者としての活動も目立っていました。そんな姿が気に入らない競馬好きは少なくなかったように思えます。私の先輩格にあたる人も、こうした活動をする田原成貴元騎手の姿が大嫌いな一人でした。

確かに当時見ていて、時々「?」を付けたくなるような騎乗はありました。でも私自身はその疑問を解決してくれたのは、マヤノトップガンという馬だったと思っています。マヤノトップガンが逃げ切り勝ちを決めたり、直線一気の競馬を見せたり、といった自在性を発揮して4つのG1を獲得した姿を見て、田原成貴という人が求めていたモノを少しだけ知ることが出来たというか・・・。

ひとつだけ間違いなく言えるのは、田原成貴元騎手の競馬感に応えることが出来た唯一の馬がマヤノトップガンだったのではないでしょうか。「?」を付けながら見ていた彼の騎乗の多くは、きっと馬が彼の求める競馬感を再現出来なかっただけだったのでしょう。その規格外で常識外れな競馬感を再現できたマヤノトップガンは、その意味で間違いなく名馬だったに違いありません。

日本競馬史において「名コンビ」と呼ばれた馬と騎手の組み合わせは数多く存在します。しかし、その中でナンバーワンと言えるのは、マヤノトップガンと田原成貴元騎手ではないでしょうか。彼があんな事件を起こさなければ、この話はもっと語られたに違いありません。もっとも、あんなキャラクターの持ち主だったからこそ、マヤノトップガンは4つのG1を勝つことが出来て、多くの競馬好きから注目を集める存在になったのかもしれませんが。

マヤノトップガン号のご冥福をお祈りします。

 

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