[日記]ミホノブルボンの思い出
「ニュース」の枠で書きましたが、1992年の皐月賞、日本ダービーの2冠を制したミホノブルボンが死亡しました。
「馬券を買ってはいけない身分」でありながら、その身分を隠してウインズ横浜に出入りしていた頃のスターホースがまた1頭、この世を去りました。ミホノブルボンという馬に関して印象に残っているレースは?と問われると、私がすぐに思い出すのは皐月賞でも、ダービーでもなく、「3冠制覇ならず」となってしまった菊花賞です。
皐月賞でも、ダービーでも、自らがハナに立ち、レースの主導権を握っていたミホノブルボンが、そのハナをキョウエイボーガンという馬に譲ることになったのが菊花賞でした。あの菊花賞にキョウエイボーガンという馬がいなかったら、あるいはキョウエイボーガンが逃げなかったら、もしかするとミホノブルボンはライスシャワーの決め手に屈することなく・・・。まあ、「タラレバ」の話ですけどね。
あの時、キョウエイボーガンの手綱を取っていた松永幹夫騎手や陣営を批判する声が、競馬雑誌の投稿欄に掲載されていたことを覚えています。逃げ宣言をしていたのですから、そんな批判をしても仕方がない、と思いつつ、確かに「ミホノブルボンを勝たせない」以外の目的が見えない逃げだっただけに、そんな批判も仕方がないかな、と考えつつ、その投稿を読んでいた記憶があります。
でも、ひとつだけ「間違いない」と思っていることがあります。キョウエイボーガンの逃げにより、自らの形とは言えないレースを強いられたあの菊花賞で、ミホノブルボンはライスシャワーの決め手に敗れましたが、マチカネタンホイザには前を譲らず、アタマ差で2着を死守しました。あの2着はミホノブルボンの強さを示したものではないでしょうか。普通の逃げ馬なら、「展開に恵まれなかった」という言い訳と共に、掲示板に載ることもできなかったでしょう。
今頃は天国で戸山為夫調教師や小島貞博騎手と再会しているかもしれませんね。その天国のG1レースで「打倒ライスシャワー」を掲げて、あのスパルタ式坂路調教がまた始まっていたりなんかして・・・。